
「スピリチュアルライフコーチ」として生きる今
これこそ、私自身が「私と繋がってできる仕事」であり
貢献できる仕事「そのもの」だと感じている
ellie nobuko

my story
きっかけ
やりたいこともしたいことも、生きる目的もわからず無気力だった高校生時代を過ごしていた。
卒業も間近な頃、誰もが進学・就職をして卒業して行く姿を、ただただ一人で見送る私だった。
そんな時、私の前に差し出された一冊の本、それが”バグワン シュリ ラージネーシ"の「存在の詩」だった。

卒業して毎日することもなく、街に出かけては喫茶店に入り浸っていたその頃の私。
その喫茶店のご夫婦と、色々話をするようになったある日、奥さんがふと私の前に置いた一冊の本。
それが、ラージネーシだった。
私は途端に、その本に引き込まれてしまった。。
毎日、開くページ開くページの一語一語に心打たれ、一人涙を流していた。
そして私は、スピリチュアルな世界に開眼した。

スピリチュアルな本との出逢いがあった後、
無為に生きている私を気の毒に思った兄が東京に連れだしてくれた。
なんとか美容師なら出来そうだと思い、美容室に就職した。
そんなある日、
「ヘアースタイルショーを見に行ってくると良いわよ。」
と、店主が言うのだった。
その気も無く出掛けた「ヘアーショー」。
が、そこに現れた女性美容師の姿に感動した!
日本に「こんな美容師がいるのか」と驚き、
そして、思った。
「彼女のような美容師になろう!」と。

美容師のころ
数日後、私は彼女がいる美容室に「雇用して欲しい」と連絡を入れたのだった。
その美容室は「麻生恒二の美容室」。
毎月、業界雑誌に掲載される麻生先生のヘアースタイルの作品は、他の美容師が作る作品とはいつも別モードの作品ばかりだった。
ヘアースタイルというよりは、「アート」に近い雰囲気だった。
さえなくダサイ田舎娘の私は、そんな環境に四苦八苦しながら、日々お洒落を工夫した。
不器用な私は、同期の美容師仲間から遅れつつも、数年後には一人前の「美容師」となった。
すると、慣れきった顧客相手の仕事よりもっと創造的な仕事をしてみたくなった。
そこで、ヘアーメイクアップアーティストになろうと決めた。


私は、フリーのヘアーメイクアップアーティストとしてヘッドハンティングされた。
華やかで創造的な仕事をしたいと思ったし、それで「夢を叶えた!」とも思った。
でも実際は限りなく地味で、そして何より「私自身とかけ離れた世界」だと気づいた。
家族は猛反対した。
雑誌の表紙を飾った「私の仕事」を見せても、
「こんなものが、なんだって言うの!」と、母は言い捨てた。
家族の反対もあり、
そして自分らしくない世界にいても違和感しか無く。
現実逃避
ある日私は、「数千万の撮影の仕事」を、突然放り出してしまった。
ヘアーメイクアップスタイリストの社長は、
「仕事は私が取って来るから貴方は現場の仕事をすればいいわ」
と、言っていたほど。本当に青天の霹靂だったと思う。
一度、撮影の仕事をした新人タレント(後に売れっ子になった)の指名も入り、大物タレントからランチを誘われた矢先のことだった。

自己矛盾

私自身「一体、どうしてこんな選択をしたのか」と思うほどだった。
それから田舎に戻っても、「いたたまれない自分」しかいなかった。
とりあえず、小さな美容室でアルバイトを始めた。
すると店主は「お店を任せたい」と、言う。
そんなオファーを喜んだのは、私の父だけだった。
私は全くうんざりしてしまい、いよいよ虚しさの世界に漂っていった。
一切が、嫌になった。
仕事も家族も誰も彼も、見るだけでうんざりして、気が滅入った。
髪を綺麗にする意味もわからなくなり、一体全体そんなことどうでも良くなった。
それでも、
「死んだような心」でいてさえも、お客さんは「私のヘアースタイル」を気に入ってくださった。
「喜びを提供出来る自分」がいても
「満たされない不幸な自分」だけがいた。
「自分が何なのか」わからなくなり
空を見上げて、涙があふれてきた。
異次元体験
私は、「日本を出よう」と決めた。
日本以外のどこかの国の片隅に、隠れてしまいたかった。
そして、家出するように「旅行に行く」と家族に言い、家を出た。
それから、長野県でアルバイトをしてから
小銭をもって「ネパールの旅」にでた。
私はネパールの雑踏の中に身を沈めた。
ネパールに癒され、どこかの誰かになった気分だった。
そんなある朝、なんの予想だにしない
突然の「異次元体験」に遭遇した。
美しい世界だった。
目を疑うほどの美しさに「魂」が目を覚ました。
まさに「魂の覚醒」だった。
私は、これまでにない「明解で鮮明な世界」に戻ってきた。
そして私は「世界の生成」を知った。

インドへ

再生した私は、インドに旅行に出た。
新しい世界に心身を浸し、以前とは見違える程になって帰国した。
新たな場所で、美容師として働いた。
けれど、インドの魅力がよみがえり、
インドの熱風がいつも身体中をふきあれ、インドが恋しくってしょうがなくなった。
俗に言う「インド病」だった。
私は、その熱にうなされた。
どうしても、インドに行きたかった。
どんな方法でも、良かった。
再びインドに行きたくって、策を探しまくった。
青年海外協力隊
そんな時、「青年海外協力隊」を思い出した。
友達が「募集があるかどうかだけでも、聞いてみなよ」と、言ってくれた。
すると、何と言うことか。
「美容師の募集が始まってますよ!」との返答だった。
そこは、インドの隣国「スリランカ」。
インドの近くに行けるだけで満足な私は、速攻応募。
そして、美容師として「スリランカ」に赴任した。
もう、家族の反対など聞く耳はどこにもなかった。
スリランカでの4年間は、私の人生感も人格そのものも再形成した。
苦しい時も多々あったけど、多々なる閃きも感じた年月だった。
通常「2年間の隊員生活」なら、それまでの自分を崩すことはなかったかもしれない。
けれど、3年を経過した頃から、私は全く「日本人らしさ」も失ったようだった。
スリランカには「感謝の思い」しかない。
スリランカを離れる飛行機の中では、
人目も憚らず泣きっぱなしだった。

再びインドへ

私は、スリランカから帰国前に「準備していたこと」があった。
それは、念願の「インドでの生活」だった。
インドにあるヒンディー語の学校に、入学すると決めて帰国したのだった。
そして願うは、デリー大学に入学することだった。
ここでも両親は、やっと帰国した一人娘が、更にインドに行くなど受け入れ難いことだった。
でも私には、インド行き以外の選択肢は無かった。
デリー大学でインド人の学生と一緒に授業を受けるなんて、どれほど魅力的かと思っていたし、ヒンディー語が好きで、スリランカにいた頃から個人レッスンを受けていたし、何よりも中学時代に「大学に行きたい!」でも「その大学は日本の大学じゃない!」と、思っていたことが実現するのだから。
インドで、私がヒンディー語を勉強していると知ったJICAインドの所長は、
そんなことばかりしてないで事務所でアルバイトでもしなさいといった。
そしてヒンディー語の授業の後に、JICA事務所で「いるだけ」のようなアルバイトをした。
デリー大学では、2年も留年しながら無事に卒業した。
私らしさとは
そして、晴れて帰国した。
もう、美容師は私の中には無かったし、「人の心に繋がり、私自身の心に響く仕事がしたい」と思っていた。
その頃、インドJICAでお世話になったJICA所長が、帰国隊員のJICAの進路相談役でいらした。
そして紹介されたのが、NPOの困窮者支援の団体だった。
苦難の人生との触れ合いは、それまでになく私自身と一番近しい仕事だと感じたものだった。
しかしながら、それでさえ私らしさの全てでは無かった。

スピリチュアルライフコーチ
感謝♾ ellie nobuko

そして今、
スピリチュアルライフコーチとしている今、
これこそが「私自身が私と繋がってできる仕事」であり「貢献できる仕事そのもの」だと感じている。
かつて私が、
無為な自分を生きている時に出会った「バグワン・シュリ・ラージネーシ」の本。
あの時のスピリチュアルな人生観を、これまでの私の体験を通して、
スピリチュアルライフコーチとして、多くの人々とシェアできる喜びは、一言では語りつくせない。